運転している父が「夏の雲と秋の雲が混じっているな」と言った。快晴の空には入道雲と鰯雲が浮かんでいた。
別の日、橋の上を運転している母が「この橋から見る雲が好き」と言った。夕方にこの橋を渡ると高確率で天使のはしごが見えるのだった。
私は父と母を愛していると思った。
帰省している。東北の夏は涼しいと期待していたのに全くそんなことない。新幹線から一歩出た瞬間にモアッと熱気に包まれて嫌な感じ。盛岡駅は新幹線乗り場から改札まで下るのにエスカレーターがなくてキー!!となる。キャリーケースを抱いて怖々階段を降りる。お母さんはさわや書店の側の出口で待っているのに、私は間違ってLUSHがある側から外に出てしまう。毎回このミスをやる。キャリーを引きずってさわやの出口の方に歩く。さんさ踊りの最終日だったので、着物を着ている人を見かけた。素敵ね。
実家の猫はまた大きくなっていた。体の長さは変わらないけど、前みたときよりミチっとしている。メスの猫だけど触った感じがオスっぽい。メス特有の体のチュルン感が少ない。ガッチリしている。よく走るから筋肉が多いのかな。帰ってすぐ、猫は私のことを覚えていないような顔をしていた。しばらく経ったら思い出したらしく足をかじられた。
夕方に近所を散歩した。適当に歩いていたら小さい時よく通った坂道に行き当たった。小学校低学年の頃はこの坂を自転車で登りきれなかった。世界で1番急勾配の坂だと思っていた。しかし、大人になってこの坂を見ると拍子抜けするくらいなだらかだ。坂とも呼べないくらい。小さい頃と感じ方があまりに違うので驚いた。世界が再構築された。
夕ご飯(すき焼きだった。お父さんのアイデアらしい。お父さんって私のこと好きだよなと思う)を食べた後、金曜ロードショーのカールじいさんの空飛ぶ家を居間のテレビで見た。母は奥の台所にいた。冒頭のカールじいさんと妻の人生絵巻を母にも見て欲しくて、居間から「お母さん見て〜!!」とでかい声で呼びかける。ちっちゃい子みたいだ。「ママ見て」「はいはい」「見てってば!!」というシーンにあうたび、「なんでそんなにお母さんに見せたいわけ?」と思っていたけど、私もめちゃくちゃやってた。全然子どもじゃないのに。
お母さんに感動シーンを見て欲しいのは、お母さんにも感動していい気分になって欲しいからだ。それって多分子ども同じだ。「ママ見て見て!」は気を引きたいんじゃなくて、自分が見つけた楽しいものをお母さんに共有して、お母さんにも楽しい気分になって欲しくてやるんだろうな。これからは「ママ見て見て!」にうるさいと思ってしまうことは減るだろう。大人になっても彼らと同じ気持ちで行動することがたくさんあるから。
子どもの頃の私と今の私で、世界の見え方は変わったが行動原理は変わらない。三つ子の魂百まで。一人っ子の魂も百まで。
干す前にバフンバフンと空気を叩けば、乾燥機にかけなくてもタオルがふかふかになることを知った。同じ要領で、Tシャツもある程度ピシッと乾かすことができる。
これはただのライフハックではない。「あなたはふかふかのタオルを使うのにふさわしい人ですよ」「あなたのためにシワのない服を用意しましたよ」と自分に伝えているのだ。
今年初めて買った本(しかも1月1日に買った)は安達茉莉子の「私の生活改善運動」だ。安達茉莉子が自分の幸せを探り、いいと思ったものだけを生活に取り入れていく姿にビビっときて、2023年は私も暮らしを真面目にやる!と決めた。この本ほどドラスティックな改革はしていないが、私の生活は少しずつ良くなっている。
安達茉莉子「私の生活改善運動」
BOOKNERDで買った。サイン付き!
皿洗いの後、食器を拭くようになった。ぐちゃぐちゃのタンスを整理した。部屋に造花とカラフルなクッションを置いた(これは「カラフル&モダンポップ 海外みたいにセンスのある部屋のつくり方(早[SAKI])」に学んだ)。ここは終の住処じゃないから適当でいい、と言い訳しない。今いるここを最高にする。
部屋を整えて始めたのと連動して、私は私を丁寧に扱いたくなった。シワのない服を着せて、鍋から直接ラーメンを食べさせないで、不安や嫉妬心を煽るコンテンツが私の目に入らないようにした。
外の環境が変化して、行動も変化すると、次は内面が変わってくる。「私が損をしても場が騒がしくならないことの方が大事」と当たり前のように思っていたが、今は「私に損をさせたら許さねえ」と少しずつ思えるようになってきた。落ち込んだ時、化膿した傷口をいじるように自分をいじめるのをやめられるようになった。自慈心が手に入りつつある。思えば、他者が落ち込んでいる時、私はその人を責めるようなことは絶対言わない。それなのに自分が落ち込んでいるときにはキツくあたっちゃうのっておかしいよな。
私は私の人生を運営する責任者だ。そして、これから100年ずっと過ごしていくパートナーでもある。私を心地よく、楽しくて綺麗なものがたくさん見られる道に引っ張っていくぞ!
安達茉莉子!そう思わせてくれてありがとう!
強い目薬を点すと鼻の奥が甘くなって気持ち悪い。
目薬の甘さは、砂糖を沢山とかした熱い紅茶に似ている。私は紅茶党で、冬場は一日に4杯も5杯も紅茶を飲む。砂糖もダバダバ入れる。好きな飲み物が体内から湧き出るのにそれが気持ち悪いなんて変だ。
鼻の奥の好みと舌の好みは違うんだね。
目薬の甘さは、目薬を点した後しばらく目頭を抑えることで回避できる。
週末を無為に過ごしてしまったと自分に感じさせないコツは、簡単なことでもいいから何かを成し遂げることだ。ゴールがあるものがいい。映画を1本観るとか、ユニクロで靴下を買うとか、1時間散歩に行くとか。今週末の私の成し遂げは餃子作り。味の素の「生姜好きのためのギョーザ」が大好きで、もっと大量に食べたいと思っていたので生姜餃子を作ってみることにした。
材料は豚ひき肉、キャベツ、生姜、姜蓉醬、片栗粉と醤油。シンプル。辛いくらいに生姜を効かせたかったから「このくらいかな?」という量から追加でスプーン2杯姜蓉醬を入れた。
姜蓉醬
肉のハナマサで買った。生姜を油と調味料で味付けしたソースのようだ。鶏肉を茹でたやつに乗せたり、きゅうりと食べたりしていたが、餃子に混ぜるのもいいね。
肉の割合が多い。
生肉を素手で触るのに抵抗があるからポリ袋を手袋代わりにしてこねた。すごくやりづらかった。生肉を素手で触ると、手を洗った後もネチョネチョが残る感じがしてちょっと嫌。でもこねているうちにポリ袋が変なふうに広がって結局素手でこねるはめになった。
合計で80個弱できた。最初に50枚入りの皮を用意していたが、餡が半分以上余ったので追加の買い出しに行った。餃子といえば炭酸のお酒!と思ってついでにほろよいも一本だけ買った。スーパーでお酒を買うのに免許証確認をされないとき(されたことない)、私って20歳未満には見えないんだなと思う。見えなくて当たり前だけど。
そして、レシピの動画を見て分かったのだが、私は生まれて20数年、餃子の包み方を間違って覚えていた。餃子って皮を2つにパタンと折って、重なった面をまとめてひだにするのだと思っていた。折り込むのは片側だけなのね!皮の部分多くなっちゃうよな〜、どうにかならないのかなと思っていた。勉強になったなあ。
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【餃子を折る】
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片側折り込み方式にしたらたくさん餡が包めて嬉しかった。両側折り込みをしていた時点では50個作ってもまだ餡が半分残っていたが、片側折り込みにしたら30枚くらいの皮で残りの餡を包みきることができた。
ジャン!
「揚げ焼きにしたい」と「羽根つきがいい」が拮抗してこのような仕上がりになった。めちゃくちゃきれい。お店の餃子のようじゃないか!食べるのがもったいないくらい上手に焼けた。かっぱ橋に行ってこれと同じ蝋細工を作って欲しい。思い出を永遠にしたい。
餃子を乗せている丸いお皿は昨日買ったばかりだ。ずっと料理が美味しそうに見えるお皿を探していた。タッパにご飯とおかずを一緒に乗せて5分で食べる生活はもう嫌だった。ご飯を美味しそうに盛り付けて食べることは、自分を大事に扱っていると自分自身に表明することだ。自慈心をもっと持ちたい。暮らしをよりよくしたい。私の「私の生活改善運動」のために新しいお皿が必要だった。
新しいお皿
でかい。柔らかい手触りでマットなお皿が欲しいと思っていた。ぴったり。
生姜餃子がこのお皿の初登板となった。素晴らしい出来の料理でお皿を使い始めることができて嬉しい。
おいしいね。味の加減も完璧だ!生姜生姜して美味しい。タレはスタンダードに醤油、酢、ラー油、胡椒でつくった。お皿は九谷焼の豆皿。あまりにおいしかったので一回で焼いた分を全部食べてしまった。1人で食べるには多すぎた。
満腹で、一緒に飲んだほろよいも回って眠くなった。焼かなかった分を冷凍庫に入れて、洗い物をして、その後すぐ昼寝した。
フィクションの粗が年々許せなくなってきている。よくない。
パクソジュン目当てで「キム秘書はいったい、なぜ?」というラブコメドラマを見ている。大会社の副会長とその秘書が恋に落ちるストーリーなのだが、こいつらの働きぶりにムキーとなってしまう。公私混同しすぎている。1話で職務時間に風俗店に行った社員をクビにしておきながら、自分らは副会長室でイチャイチャしている。こんなこと許されるか?!許されないだろ?!このドラマにおいては、仕事パートはそこまで重要でないにも関わらずそんなところばかり気になってしまう。
数年前に横浜流星目当てで見ていた「初めて恋をした日に読む話」にもむかついていた。ピンク髪の横浜流星が塾講師の深キョンと出会い恋に落ち、東大合格と恋愛成就の二足の草鞋ゲットのために頑張るドラマだ。受験のパートより歳の差恋にヤキモキするストーリーだったのに、勉強パートが無駄に気になってしまった。だって、九九が怪しい状態から始めて現役で東大に受かるわけないだろ!!毎話「横浜流星!!そんな深キョンとイチャイチャばっかりして!勉強しろよ!なあ!」とテレビに怒っていた。
前はこんなに気にならなかった。昔は男装した女子が、イケメンしか入学できない男子校に入学する「花ざかりの君たちへ〜イケメンパラダイス〜」が1番好きなドラマだった。イケパラに勉強のシーンがあった記憶がないが、全く気にならず楽しく見ていた。今見たら「そもそもイケメンしか入れない男子校ってなんだよ」と思ってしまうに違いない。
経験値が増えて世の中の仕組みが分かってくると、フィクションを受け入れるキャパは反比例して少なくなるのかもしれない。
母と「おおかみこどもの雨と雪」を映画館に見に行った時、母は「こんなこと現実にありえない」と言っていた。そのときは、「アニメなんだから現実も何もないだろ」と言っていることが理解できなかったが、今の私はどんどんあの時の母に近づいている。私が受験や就職を経て、受験ドラマやお仕事ドラマの粗が気になるようになったように、母はこれまでの人生で得た知識から、アニメであっても狼がゴミ収集車に捨てられてしまう有り得なさにむかついたのかもしれない。
さらに歳を重ねて、フィクションを受け入れるキャパが極限まで少なくなったとき、フィクションをノンフィクションとして捉えるようになる。ソースは私の祖母だ。祖母はテレビっ子で、たくさんのドラマを見ていた。祖母はドラマの役柄と俳優のパーソナリティを同一視していた。「ドクターX」放送時に「米倉涼子は最近調子に乗っているから好きじゃない」と言っていたのをよく覚えている。祖母のお気に入りは人格者の役を演じていた鈴木亮平だった。
祖母のお気に入りが鈴木亮平と聞いた母は「あの人は変態仮面のイメージがあるからちょっとね」と言っていた。私が母に近づいているように、母も祖母に近づいている。
となると、私もいずれ……。