フィクションのキャパ

 フィクションの粗が年々許せなくなってきている。よくない。

 パクソジュン目当てで「キム秘書はいったい、なぜ?」というラブコメドラマを見ている。大会社の副会長とその秘書が恋に落ちるストーリーなのだが、こいつらの働きぶりにムキーとなってしまう。公私混同しすぎている。1話で職務時間に風俗店に行った社員をクビにしておきながら、自分らは副会長室でイチャイチャしている。こんなこと許されるか?!許されないだろ?!このドラマにおいては、仕事パートはそこまで重要でないにも関わらずそんなところばかり気になってしまう。

 数年前に横浜流星目当てで見ていた「初めて恋をした日に読む話」にもむかついていた。ピンク髪の横浜流星が塾講師の深キョンと出会い恋に落ち、東大合格と恋愛成就の二足の草鞋ゲットのために頑張るドラマだ。受験のパートより歳の差恋にヤキモキするストーリーだったのに、勉強パートが無駄に気になってしまった。だって、九九が怪しい状態から始めて現役で東大に受かるわけないだろ!!毎話「横浜流星!!そんな深キョンとイチャイチャばっかりして!勉強しろよ!なあ!」とテレビに怒っていた。

 前はこんなに気にならなかった。昔は男装した女子が、イケメンしか入学できない男子校に入学する「花ざかりの君たちへ〜イケメンパラダイス〜」が1番好きなドラマだった。イケパラに勉強のシーンがあった記憶がないが、全く気にならず楽しく見ていた。今見たら「そもそもイケメンしか入れない男子校ってなんだよ」と思ってしまうに違いない。

 経験値が増えて世の中の仕組みが分かってくると、フィクションを受け入れるキャパは反比例して少なくなるのかもしれない。

 母と「おおかみこどもの雨と雪」を映画館に見に行った時、母は「こんなこと現実にありえない」と言っていた。そのときは、「アニメなんだから現実も何もないだろ」と言っていることが理解できなかったが、今の私はどんどんあの時の母に近づいている。私が受験や就職を経て、受験ドラマやお仕事ドラマの粗が気になるようになったように、母はこれまでの人生で得た知識から、アニメであっても狼がゴミ収集車に捨てられてしまう有り得なさにむかついたのかもしれない。

 さらに歳を重ねて、フィクションを受け入れるキャパが極限まで少なくなったとき、フィクションをノンフィクションとして捉えるようになる。ソースは私の祖母だ。祖母はテレビっ子で、たくさんのドラマを見ていた。祖母はドラマの役柄と俳優のパーソナリティを同一視していた。「ドクターX」放送時に「米倉涼子は最近調子に乗っているから好きじゃない」と言っていたのをよく覚えている。祖母のお気に入りは人格者の役を演じていた鈴木亮平だった。

 祖母のお気に入りが鈴木亮平と聞いた母は「あの人は変態仮面のイメージがあるからちょっとね」と言っていた。私が母に近づいているように、母も祖母に近づいている。

 となると、私もいずれ……。