【感想】セックスエデューケーションS4

 セックスエデュケーションS4を見た。見始めたら止まらず、日曜日に1日かけて全部見てしまった。8時間ドラマ見てたってこと?こわ!!!

 

 今回はジーンやアダムパパ、ジャクソンのママなど親の立場の人の弱さにもフォーカスが当たっていた。大人になっても完璧になれない。メイヴの先生が「最初から全員(の才能)を見抜くのは難しい」と言っていた。先生とかカウンセラーの立場にいる人にはどうしても完璧であることを期待してしまう。でも、導く立場の人も間違えるんだ。そういうことをオーティスも選挙のPR動画で言っていた。

 信仰について悩んでいたエリックが啓示を受けて牧師になることを決意するシーンも素晴らしかった。エリックは次は自分が導く立場になろうとしているんだね。エリックを都合のいい親友キャラに留めないでくれた脚本にも感謝。

 

 このシーズンでは「対話から逃げない」ということを教えてくれた。「これ言ったら嫌われるかな」「恥かくかも」とか、言う前にたくさん考えちゃう。でも、リスクはつきもので、言わないと何も伝わらない。間違うことは恥ずかしいことじゃない。困ったら人に助けてもらえる。でも、助けて欲しかったらちゃんと困っていることを言わないといけない。アダムが方法を知らない状態で馬に乗ってみたように、展開が読めなくても言葉にして伝えるしかない。

 不確実性のこの時代に一番大事なのは対話だ。しみじみとありがたい作品だなあ。

 

 ただ、オーティスとメイヴの関係については胸が千切れるような思いだ。なんでこんなにすれ違うわけ?!ってずっとずっと思ってた。メイヴの選択はめちゃくちゃ正しいと思う。私が友達でも絶対そうしろって言う。でもオーティスとはそれでいいの……。夢も好きな人もどっちも取る道を選んじゃってもいいのに。最終的に大嫌いになってもいいから、上手くいかなくなるまで遠距離恋愛を続けてみたらいいのに!ララランドを見たとき「運命の人と一生幸せに暮らしましたとさ」以外のめでたしめでたしがあることに感銘を受けた。オーティスとメイヴの関係もそんな感じになったね。ただ、オーティスとメイヴはもうちょっと対話しても良かったんじゃないか。綺麗な思い出になんかせずに、言うことがなくなるまで話尽くしてから分かれればよかったんじゃないか。エリックには「話そう」って言えたのに、メイヴには「もう連絡しない方がいい」って、そんなのひどいよ〜!オーティス〜!!人の話を聞くのはうまいのに、自分はなんで何も言わないの!「メッセージが来ることを期待しちゃう」って!そう思うなら自分で送れよ!

 人生一筋縄じゃいかねーな!でも生きるしかないし、伝えるしかない。傷ついたり傷つけたりしても。

文庫本を抱えて部屋のすみへ

 気に入っている本ほど汚れている。今持っている本の中で一番汚れているのは近藤聡乃「ニューヨークで考え中」の1巻。信じられないくらいボロボロ。2巻以降もだいぶやばい。気に入った本は本棚に収納されている時間が短く、その分汚れリスクも高い。

 最近、江國香織の「ホリーガーデン」を読み返した。ホリーガーデンも何回も読んでいるのでボロボロだ。ピンク色の表紙が擦り切れている。本は周回ごとに感想が変わるのが面白い。今回はラストシーンにグッきた。救われる終わり方だね。

 私は物語に劇的な事件はいらないと思っている。人生が80年とか100年とかあって、その中の何年か(もしくは何日か)をパツンと切り取ったような物語が好きだ。本を閉じた後も登場人物の人生は続いていると思わせて欲しい。江國香織はそういう物語を書くから好きだ。たぶんそれは登場人物の細かい生活のディティールが書かれているからだ。ストーリーを展開させるために存在しているわけではない。紅茶を飲み、音楽を聴き、買い物をするなかに出来事があるだけだ。

 江國香織の本を読んだあとは頭の中の地の文も江國香織の文体になる。地の文のスピードがゆっくりになって、動作の一つ一つを意識する。窓を開けるだけでも、入ってくる風を感じ、外を走る自転車の音を聞き、向かいの家の木の緑をさやかに見るようになる。影響されて私も生活を細かく描写する。私の物語もまた、生活の中に存在する。

みかん

 終電間際の電車で私は入り口付近でうつむいて立っていた。電車が駅につき、ドアが開いて人がドヤドヤと入ってくるなかで、不意に強い芳香を嗅いだ。平日夜のくたびれたサラリーマンの群れにふさわしくない匂いだ。なんの匂いだろう。グレープフルーツのハンドクリームかしら。私は顔を上げて匂いの方をこっそり盗み見た。

 私の斜め後ろを陣取っているサラリーマンが、まさに今、みかんを剥いていた。

 サラリーマンがあんまりに自然だったのでだれも気にしていない様子だった。電車で生の果物を食べている人を見るのは初めてだ。こういうことしていいんだ!と素直に感動した。マリオの知らないコースを見せられた気持ちだった。

 みかんの爽やかな香りが忘れられず、翌日オレンジジュースを飲んだ。

髪の毛

 部屋を丸く掃いたらクイックルワイパーの両端に髪の毛がたくさんひっついていた。昨日も掃除したのになぜ。昨日も昨日で大漁だった。掃除の雑さが問題なのではない。髪が抜けすぎている。風呂場や部屋だけじゃなく、トイレにも髪の毛がたくさん落ちていた。トイレにいる時間なんてたかだか数分なのに!

 クイックルワイパーからシートを剥がす。なるべく髪の毛部分を触らないようにつまむようにしてゴミ箱に捨てる。手が不潔になった感じがするから石鹸で洗う。元は自分のものなのに落ちている髪の毛の汚さといったらない。私は頭を撫でるように髪の毛を触る癖があり、毎日何回も髪をゴシゴシ触っている。それなのに、床に落ちた髪の毛は指も触れたくないように感じてしまう。自分の一部であるときは仲間だけど、分離すると余所者になる。身勝手だ。

 でもな〜。落ちてる髪の毛ってなんかゴソゴソして嫌な感じがするから嫌なんだよな。オイルを塗ってツヤツヤになるように手間暇かけているのに、抜け落ちた髪の毛は羅生門の老婆も欲しがらないようなパサパサの一筋だ。

 ただ、毎日ある程度の髪の毛が抜けるのは問題ないらしい。代謝しているから仕方ない。私だけじゃなくみんなもそうなんだなと思うと安心する。たしかに、友人たちとホテルに連泊したとき、2泊目にして風呂場の排水口が髪の毛で詰まったことがあった。女3人もいれば抜ける髪の毛の数も相当だったのだろう。

 毎日何十本も抜けて、きっとそれと同じくらい新しい毛が生えている。私は髪が短いから1番長い部分でも1年以内に生えた毛だろう。長くて1年、それよりもっと短く抜けるものもあり、定期的に一定数が切られる。めちゃくちゃ苛烈な会社みたいだ。そう思うとかわいそうになってきた。髪伸ばそうかな。

 運転している父が「夏の雲と秋の雲が混じっているな」と言った。快晴の空には入道雲鰯雲が浮かんでいた。

 別の日、橋の上を運転している母が「この橋から見る雲が好き」と言った。夕方にこの橋を渡ると高確率で天使のはしごが見えるのだった。

 私は父と母を愛していると思った。

魂百まで

 帰省している。東北の夏は涼しいと期待していたのに全くそんなことない。新幹線から一歩出た瞬間にモアッと熱気に包まれて嫌な感じ。盛岡駅は新幹線乗り場から改札まで下るのにエスカレーターがなくてキー!!となる。キャリーケースを抱いて怖々階段を降りる。お母さんはさわや書店の側の出口で待っているのに、私は間違ってLUSHがある側から外に出てしまう。毎回このミスをやる。キャリーを引きずってさわやの出口の方に歩く。さんさ踊りの最終日だったので、着物を着ている人を見かけた。素敵ね。

 実家の猫はまた大きくなっていた。体の長さは変わらないけど、前みたときよりミチっとしている。メスの猫だけど触った感じがオスっぽい。メス特有の体のチュルン感が少ない。ガッチリしている。よく走るから筋肉が多いのかな。帰ってすぐ、猫は私のことを覚えていないような顔をしていた。しばらく経ったら思い出したらしく足をかじられた。

 夕方に近所を散歩した。適当に歩いていたら小さい時よく通った坂道に行き当たった。小学校低学年の頃はこの坂を自転車で登りきれなかった。世界で1番急勾配の坂だと思っていた。しかし、大人になってこの坂を見ると拍子抜けするくらいなだらかだ。坂とも呼べないくらい。小さい頃と感じ方があまりに違うので驚いた。世界が再構築された。

 夕ご飯(すき焼きだった。お父さんのアイデアらしい。お父さんって私のこと好きだよなと思う)を食べた後、金曜ロードショーカールじいさんの空飛ぶ家を居間のテレビで見た。母は奥の台所にいた。冒頭のカールじいさんと妻の人生絵巻を母にも見て欲しくて、居間から「お母さん見て〜!!」とでかい声で呼びかける。ちっちゃい子みたいだ。「ママ見て」「はいはい」「見てってば!!」というシーンにあうたび、「なんでそんなにお母さんに見せたいわけ?」と思っていたけど、私もめちゃくちゃやってた。全然子どもじゃないのに。

 お母さんに感動シーンを見て欲しいのは、お母さんにも感動していい気分になって欲しいからだ。それって多分子ども同じだ。「ママ見て見て!」は気を引きたいんじゃなくて、自分が見つけた楽しいものをお母さんに共有して、お母さんにも楽しい気分になって欲しくてやるんだろうな。これからは「ママ見て見て!」にうるさいと思ってしまうことは減るだろう。大人になっても彼らと同じ気持ちで行動することがたくさんあるから。

 子どもの頃の私と今の私で、世界の見え方は変わったが行動原理は変わらない。三つ子の魂百まで。一人っ子の魂も百まで。

私の「私の生活改善運動」

 干す前にバフンバフンと空気を叩けば、乾燥機にかけなくてもタオルがふかふかになることを知った。同じ要領で、Tシャツもある程度ピシッと乾かすことができる。

 これはただのライフハックではない。「あなたはふかふかのタオルを使うのにふさわしい人ですよ」「あなたのためにシワのない服を用意しましたよ」と自分に伝えているのだ。

 今年初めて買った本(しかも1月1日に買った)は安達茉莉子の「私の生活改善運動」だ。安達茉莉子が自分の幸せを探り、いいと思ったものだけを生活に取り入れていく姿にビビっときて、2023年は私も暮らしを真面目にやる!と決めた。この本ほどドラスティックな改革はしていないが、私の生活は少しずつ良くなっている。

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安達茉莉子「私の生活改善運動」

BOOKNERDで買った。サイン付き!

 

皿洗いの後、食器を拭くようになった。ぐちゃぐちゃのタンスを整理した。部屋に造花とカラフルなクッションを置いた(これは「カラフル&モダンポップ 海外みたいにセンスのある部屋のつくり方(早[SAKI])」に学んだ)。ここは終の住処じゃないから適当でいい、と言い訳しない。今いるここを最高にする。

 部屋を整えて始めたのと連動して、私は私を丁寧に扱いたくなった。シワのない服を着せて、鍋から直接ラーメンを食べさせないで、不安や嫉妬心を煽るコンテンツが私の目に入らないようにした。

 外の環境が変化して、行動も変化すると、次は内面が変わってくる。「私が損をしても場が騒がしくならないことの方が大事」と当たり前のように思っていたが、今は「私に損をさせたら許さねえ」と少しずつ思えるようになってきた。落ち込んだ時、化膿した傷口をいじるように自分をいじめるのをやめられるようになった。自慈心が手に入りつつある。思えば、他者が落ち込んでいる時、私はその人を責めるようなことは絶対言わない。それなのに自分が落ち込んでいるときにはキツくあたっちゃうのっておかしいよな。

 私は私の人生を運営する責任者だ。そして、これから100年ずっと過ごしていくパートナーでもある。私を心地よく、楽しくて綺麗なものがたくさん見られる道に引っ張っていくぞ!

 安達茉莉子!そう思わせてくれてありがとう!